0.38秒

 雲に乗った,何とも説明しがたいその生物は,先が釣り針ではなく,なぜか信号機のようなものがくっついた釣り竿を携え,突然私の目の前に現れた。私はその生物を前にしても特に驚くことはなく,むしろ歓迎した。その信号機のようなものは縦に3つランプが並んでいて,普段我々が目にする信号機とほぼ同じような形をしていた。すると突然,その信号機の一番上のランプが点灯し,カウントダウンを始めた。しかし,私はそれに対しても驚きはしなかった。初めからそうなるとわかっていたからだ。2つ目のランプが消えると同時に,私は無意識に手元の青いボタンを強く押し,彼女に無言の指示を与えた。彼女は場違いなピンク色のドレスを身にまとい,金色の髪が腰のあたりまでのびていた。頭には王冠のようなものも載っていた。彼女は私からの無言の指示に素直に従い,アクセルを力いっぱい踏み込んだ。そう,彼女はいま車に乗っているのだ。

 彼女はアクセルを踏むと同時にハンドルを右に180°回転させ,最初のカーブに差しかかった。実に見事なドリフトだった。不思議なことに,ドリフトで発生した砂ぼこりの色が,白から黄色,そして赤へと変化した。(この現象をいちいち説明するのも面倒なので,ここでは便宜上「ミニターボ」と呼ぶことにする。)ミニターボを発動させると,車のスピードが一時的に速くなり,彼女もそのことは以前から知っているようだった。彼女はミニターボの恩恵を受けながら一気に草むらを駆け抜けた。すぐそばにはアスファルトで舗装された道があるのだが,彼女はとても急いでいる様子だった。最初のミニターボの効果が切れると同時に舗装路に落ち着き,左前方に大きなキノコのモニュメントが建っているのが確認できた。いま冷静に考えると「なぜキノコなのか」と疑問だが,当時はとにかく急いでいたので,それについてゆっくり思いをめぐらせる余裕などこれっぽっちもなかった。彼女はハンドルを左に少し切り,キノコのモニュメントが見える位置を右前方に移した。そしてまたしてもアスファルトの舗装路から逸れ,草むらへと突っ込んだ。彼女はキノコのモニュメントとレンガの壁との間にわずかなすき間があることを見逃さなかった。ミニターボを発動させ,接触することなくそのわずかなすき間を通り抜ける。その直後,突然彼女は“Here we go!”と口にした。運転の荒さからは想像もつかないほど,彼女の声はとても繊細だった。日本人でないことはすぐに判断できたが,いったいどこの国の人なのだろう。とにかく,機嫌は良さそうだ。すき間を抜けると,ようやく彼女は舗装路に沿って走ってくれた。しかしそれもつかの間,またすぐに砂地へと突っ込んだ。あまり運転は得意でないらしい。砂地に入ると,彼女はハンドボールほどの大きさの,白い斑点のついた赤いキノコを機械的に1つ取り出し(どうやら同じものを3つ持っているようだ),それを地面に叩きつけた。すると不思議なことに,車は一気に加速した。原理は不明だが,加速はしばらく持続し,その間に彼女は砂地を一気に走り抜け,気がつくと舗装路に戻っていた。やれやれ,そこまで近道をして,何をそんなに急いでいるのだろう。舗装路に戻ってすぐ,円筒型の緑色のトンネルが彼女を迎え入れた。特に国境のない短いトンネルを抜けるとスタート地点であった。一周したのだ。しかし,彼女は止まることなく同じ道を走り続けた。

 結局,彼女は同じ道を3周走った。(雲に乗ったあの生物は,スタート地点を通るたびにやってきて無言の声援を送ってくれた。)速報タイムは1分13秒74。正式タイムも同じだった。電光掲示板に表示された自分の記録を意味もなくしばらく眺めていると,先ほどの生物がやってきて,記録がまとめられた帳簿を見せてくれた。彼女のほかにも挑戦者がたくさんいることが帳簿から見て取れた。国籍はさまざまだが,ヨーロッパの占める割合が高いようだった。今回の彼女の記録は,上から数えて8番目だった。世界8位,ということか。私は試しに日本人の記録だけを追ってみた。どうやら日本人のなかでは一番速いようだった。再び全体に目を戻すと,1位のところには1分13秒36と書かれていた。つまりこれが世界記録。あと0.38秒。

 私はいま,テレビの前に座って,アルファベットの「M」のような形をした赤色のコントローラーを握っている。そして,画面上にあるカーソルを「リトライ」と書かれたところに合わせ,青いボタンを押した。私はふたたびランプのカウントダウンを待った。(終)

マリオカート64は,今年で発売から24年。私は今でも現役のプレイヤーです。マリオサーキットの世界記録が出せたら,改めてご報告いたします。

マリオサーキットの俯瞰図(これを見ながら読むとイメージしやすいです。)

あいあいBB