30年
阪神大震災から30年だそうです。たしかにそういうトシかぁ…
YouTubeで、サンテレビの当時の映像を見ました。
当時は実家にいましたが、寝ていた2階の部屋の窓の鍵があいていたようで、おそらく、5時46分。その窓が端から端まで、すごい勢いでバタンバタンとあいたりしまったり、キーン…と、耳の奥に轟音が響いて目が覚めました。部屋の屋根が傾いて、天井に突っ張っていたポールがぶらんぶらん揺れて、落ちてくるかと思いました。
なんとか階段を降りると、父が長いこと飲まずに大事にしてた、たぶん、高いお酒が入った棚が思いっきり倒れ、高いワイングラスのかけらが飛び散り、アルコールのにおいがすごかった。せっかくのお酒、全部じゅうたんに飲まれてしもた…
台所に行くと、食器棚の戸があいたのか、これも、たぶん、高いなお皿は全部落ちて割れ、ポイントをためてもらったパン屋さんの白いお皿はほぼ全部無事て…
外に出ると、向かいのおっちゃんが、「ガス臭い! みな、元栓見てきてや!」と大声で言うてました。
尼崎は、神戸→芦屋→西宮、武庫川を挟んで尼崎、という位置関係だからか、家が倒れたりということはなかったので、「えらい揺れて…ほんまびっくりしたねぇ」と、ふだんは話したことがない近所のおばちゃんたちと、口々に言うてました。
停電でしばらくは動けず、少し明るくなって、家の中をぼちぼち片付けてましたが、幸い、数時間で電気が通りました。
テレビつけてびっくり。阪急電車はぶらんぶらんになってるし、阪神高速はコケてるし、えらい火事も起きてるし…。
その頃は、インターネットって、そんなに普及してなかった…。はっきり覚えてないけど、情報を得るのは、テレビか電話。東大阪にいる妹から電話があって、ひどいのは神戸のほうで、大阪の方はたいしたことない、けど、電車は止まってる、というようなことを少し聞きました。
すごい数のヘリコプターが飛んでて、テレビの画面は、そこからの映像やったみたい。
阪神高速の下を通ってる国道43号線。長い間、上は明るかったのに、いつの間にか、前みたいに暗くなったと気づいて、「ああ、高速道路、できたんや」と、思ったのを覚えています。
自分のところがちょっと落ち着いて、出身大学がボランディアを募集しているというのを聞き、少し参加しました。西宮の中学にできてた避難所で、ボランティアのリーダーみたいな役割をしてはったのは、山形から来たっていう40代ぐらいのおじさん。料理人さんらしくて、支援物資で届いた缶詰や乾麺から、毎日いろんなごはんを作ってくれてました。「神戸にはなんの縁もないけどね。こんなことほっとけんでしょ」と、お店閉めて、包丁だけ持って、大阪からは歩いてこられたそうです。
大学の人たちから「『なんか手伝って』って言われたら頼みますね」という指示だけをもらって、事務スペースにいたのは、10人ぐらいかな。けど、じっとしてる人は、一人もいなかった。掃除してるかと思ったら、なんか運んでる、料理手伝ってる、水くみ手伝ってる。「ちょっと3人ぐらい来てくれるかな~」っていう声が聞こえたら、3人といわず、そばにいた人全員が小走りで出ていく。みんななんかしたくて集まってきて、何したらいいかわからん、なんていう人はいない。助け合いというような、安っぽい言葉ではなく、「ほっとかれへん。なんかせな。」それだけやったんやなぁと思います。
小倉智昭さんが東日本大震災の被災地に取材に行ってました。阪神のときとは違う、津波のあと。「がれきって言うけど、ゴミじゃない。全部、人の生活のあとなんだ」って言うてはったのが印象的です。
いろんな人が生活してて、えらいことになったとき、助け合って、なんとかする。お金のためとか、褒めてもらえるとか、そういうんじゃない、日本人の本質的な資質っていうんでしょうかね。ここは失いたくないな、と思います。
南海トラフ地震が起こる確率が、より高くなったとか。
ほんまに起こったら、どうなるんか、予想もできませんが、30年前の経験を無駄にしないように、少しずつ備えたいと思います。
地味な教訓ですが,家を出るときは,横開きの食器棚の棚はきちんと閉めます。まじないのかわり。
みんな無事でな。
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