昨年10月、父が逝去した。
父の郷里は広島県三原市糸崎。
瀬戸内海に面した静かな街だ。
父の生家は数年前に取り壊した。
今では墓があるのみである。
今年は初盆にあたるので、墓参りに行くことにした。
糸崎へ行くには、新大阪または新神戸から山陽新幹線で福山まで行き、在来線に乗り換える。
2時間あれば着く。
しかし、新幹線でただ往復するのも味気ない。
これでも10代のころは鉄道ファンだった。
祖母が生きていたころ、夏休みや冬休みになると、
当時住んでいた芦屋から在来線を乗り継いで、ひとりで糸崎へ行った。
「鉄」の血が久々に騒いだ。
各駅停車を乗り継いで糸崎に行こう。
そう決めた。
また、もうひとつ立ち寄りたい場所があった。
福山競馬場である。
競馬には、中央競馬と地方競馬がある。
中央競馬は、日本中央競馬会(JRA)が管轄している。
通常、競馬といえば中央競馬を指す。
一方、地方競馬は、地方自治体が管轄している。
ほとんどが赤字運営と聞く。
実際、廃止された地方競馬も多い。
今回たずねようと思った福山競馬は福山市営。
存続のピンチにある。
なくなる前に行っておきたい。
ちなみに、現存する地方競馬場は、
帯広、門別、札幌、盛岡、水沢、浦和、船橋、大井、川崎、
中京、名古屋、笠松、金沢、園田、姫路、福山、高知、佐賀の18競馬場。
このうち、今回の福山を除き、行ったことがないのは、
帯広、門別、盛岡、水沢、浦和、船橋、高知、佐賀の8競馬場。
中央競馬場は全場制覇を達成しているので、
地方競馬場完全制覇も成し遂げたいと思う。
さて、前置きが長くなった。
「小ばくち打ちの初盆旅日記」をはじめる。
<2012年8月12日(日)>
朝早く起きて旅立つ予定だったが、
お盆休みに入った疲れか、ロンドンオリンピック観戦疲れか、寝坊してしまった。
自宅の最寄り駅、阪急神戸線武庫之荘駅についたのは9時30分だった。
三宮行きの各駅停車に乗り込む。
武庫之荘の次、西宮北口で新開地行きの特急待ち。
特急に乗り換えたほうが三宮に早く着くのだが、
きょうは各駅停車の旅と決めこんでいるので、
特急を見送って各駅停車にそのまま乗車する。
夙川、芦屋川と、8歳から18歳まで暮らした家の最寄り駅に停車。
思えば阪急神戸線とは40年近いつきあいになる。
岡本、御影、六甲、王子公園、春日野道と停まって、10時6分終点三宮着。
ここで、隣接するJR三ノ宮駅からJR神戸線に乗って西へ向かえばいいのだが、
きょうは日曜日、中央競馬の開催もある。
そこで、三ノ宮駅から一駅歩いて元町駅前にある場外馬券発売所(WINS)へ。
2レースほど馬券を買ってみたがかすりもしなかった。
余計な時間を食ったことに後悔し、JR元町駅へ。
10時55分発の西明石行きの普通に乗る。
兵庫、新長田、鷹取と停車して、須磨海浜公園駅着。
須磨海浜公園? いつのまにこんな駅が? と思い、調べていると2008年に開業したとのこと。
海の季節まっただ中とあって、水着が入っているのであろうバッグを持った若い子たちが下車していった。
須磨、塩屋、垂水と停車して、舞子着。
明石海峡大橋を通って徳島方面に向かうバスの発着駅になっており、
キャリーバッグを引いた乗客が数名降りていった。
淡路島へフェリーで出かけていたころが懐かしい。
> 朝霧、明石と停車して、11時26分西明石到着。
ここから姫路方面に向かう電車に乗り換えるのだが、
福山競馬場に寄って、墓参りをすることを考えると、
悠長に各駅停車の旅とはいってられなくなってきた。
今回の旅のメインは墓参りであり、日が暮れてから墓に参ったのではさすがに申し訳ない。
そこで方針変更。
新快速に乗車した。西明石11時41分発。
加古川に停車して、12時1分姫路着。
姫路ではかならず食べる駅そばがある。
「まねきそば」だ。白いそばである。
ただ、姫路駅はいつのまにか高架駅になっていた。
姫路駅は、和田山方面に向かう播但線や、津山・新見方面に向かう姫新線の始発駅であり、
地上駅のときは威風堂々としており、ホームにあるまねきそばの店舗も味わいがあった。
高架駅のホームで食べるまねきそばは、少し残念な感じがした。
さて、姫路・岡山間は、山陽本線のなかでもローカル色が高い区間。
今回の各駅停車の旅のクライマックスとなるところなのだが、
今回は競馬と墓参りを優先することにして、
姫路から一気に福山まで、新幹線で移動することにした。
ちょうどいい時間に「こだま」があったのだ。
姫路発12時19分、福山着13時29分。
帰省の時期でもあり、指定席は満席だったので自由席へ。
1時間少々だからデッキに立っていてもいいかなと思ったが、
運良く座席が空いていたので座ることができた。
相生、岡山、新倉敷と各駅に停まって福山着。
新幹線を使ったとはいえ、これもある意味「各駅停車の旅」である。
福山駅からはタクシーで競馬場へ。
「福山競馬場へ。」というと運転手さんとどうしても競馬談義になる。
「たまに何十万いう馬券が出るけぇ。」と射幸心をあおられる。
競馬場は駅からは3kmほどのところにあった。
「タクシー代くらい儲けてきんしゃい。」と励ましてくれた運転手さんへ千円札を渡し、いざ福山競馬場へ。
しかし、施設を見て驚いた。
小さいのだ。
入り口に人はなく、閑散たるもの。
所属騎手が写真入りで紹介されていたがこれだけしかいないのかと驚く。
入場料は100円。
まずは競馬新聞売り場で競馬専門紙を買う。
専門紙は4ページ立てで550円。
高い。
見ると、出馬表に赤丸が書いてある。
「これは何ですか?」とたずねると、
「固いレース」と売り場のおばちゃん。
新聞にあらかじめ印が印刷しているあるのに、さらに直筆で本命に赤丸とは驚いた。
(実際、この馬が楽勝したのでさらに驚いた)
専門紙売り場の隣に食堂が並んでいる。
いやぁ、いかにも地方競馬っぽくてたまらない。
パドックも箱庭みたい。
場内も小さい。
小さいけどお客さんも少ないから狭さが気にならない。
コースに出てみた。
小さい。
でも、景色がきれい。
すうっと心が洗われるようだ。
実は福山競馬場へ来たかった理由はもう一つある。
Vシネマ「難波金融伝 ミナミの帝王 劇場版PARTXIII リストラの代償」で、
福山競馬場がロケ地に使われていたのだ。
萬田銀次郎(竹内力)から金を借りた宇田川(森川正太)が逃げ、
競馬場の投票所で働く奥さんのもとに現れる。
それを所有馬の応援に来ていた沢木の親分(ゆうき哲也)の舎弟・広瀬(天田益男)がたまたま見つけ、
萬田銀次郎に知らせる。
銀ちゃんは、ベンツを駆って福山までかっとばすのだ。
Vシネマでは、大勢の客が映っていたが、
実勢とは違うエキストラを動員したのだろう。
投票所で「はよせい!」と怒号を浴びせる客もいなければ、
人でごった返すなか、広瀬が萬田に電話するシーンに使われた階段も閑散としたもの。
で、肝心の競馬だ。
第5、第6、第7レースと参戦し、3レースとも的中したが、すべて取って損。
ほぼ新聞の印通りの固い決着だった。
◆福山競馬の馬券
◆福山競馬の投票カード
お客さんは少ないが、歓声は熱い熱い。
常連のおっさんしか来ないのだろう。
めいめい大声を上げてレースを楽しんでいる。
「こら!5!はよハナ行けや!」
「3!何しよんなら!はよしかけぇ!」
と広島弁が飛び交うさまは鉄火場そのものだ。
ニュースによると、
福山競馬の2012年度4月~7月の1日あたりの入場者数は1541人、
売上は7795万円(総売上17億9290円)とのこと。
厳しい現実は、賞金額に現れている。
この日のメインレース、1着賞金が15万円。
以下、2着3万円、3着1万5千円、4着7千円、5着以下0円。
賞金は、馬主80%、調教師10%、騎手5%、厩務員5%に配分されるのが一般的なので、 メインレースに勝った騎手の取り分はわずか7,500円である。
ちなみに、この日中央競馬(JRA)のメインレースだった関屋記念(新潟競馬場)の1着賞金は3,800万円だ。
福山競馬が廃止されたら、馬は、騎手は、調教師は、厩務員は、どうなるのだろう。
きょうわずかではあるが、福山競馬の売上に貢献できたことを誇りに思いながら、第8レース以降を残して競馬場を出た。
帰りに乗ったタクシーの運転手に「どうじゃった?」と訊かれたので「ダメでした」と答えた。
「固いですね。」というと
「ほうじゃのう。たまには何十万という馬券も出るんじゃがのう。」とまた言われた。
時刻は16時。競馬のメインレースは終わったが、私のメインイベントはまだこれからだ。
福山16時12分発の岩国行きに乗車。車内は混んでいてずっと立っていた。
備後赤坂、松永、東尾道と停車して、尾道着。
尾道の手前から、瀬戸内海に沿うように走る。
尾道水道を隔てて向島が見える。
この景色を見ると、いつも映画「転校生」のラストシーンが浮かぶ。
尾道ラーメンを食べたいが、ここはこらえて糸崎を目指す。
尾道を出てしばらくすると、国道2号線をはさんで瀬戸内海沿いを走る。
この景色をみると、おばあちゃんちにやってきたんだと実感する。
16時47分糸崎着。
糸崎駅はいまでこそ普通しか停まらない駅だが(そもそも今は普通しか走っていないが)、山陽新幹線が開通するまでは急行停車駅だった。
寝台特急「はやぶさ」も停まっていた。
駅うどんもあり、天ぷらうどんが名物だった。
懐かしい「湘南色」の編成が停まっていたので写真に収めた。
今年は広島カープが熱い。
糸崎駅の1日の利用客は1000人に満たないようで、改札も簡素なものになった。
ICOCAが使えることにかえって違和感を覚える。
駅から歩いて父の生家跡をたずね、墓に向かうことにする。
途中、国道2号線沿いにある三原スーパーで仏花と水を買った。
17時を過ぎたとはいえ、残暑は厳しい。
糸崎は尾道ほどではないが坂の街である。
年々、この坂を歩いて上がるのがこたえるようになった。
運動不足を実感する。
駅から生家跡までは徒歩20分といったところ。
生家跡は更地である。
写真を撮っていると、南の家のおばさんが怪訝そうに見ていたので声をかけてみた。
なんと、私のことを覚えてくれていた。
父の安否をたずねられたので「去年死にました」というと、
「そうね。よう来てくれんちゃったねぇ。」とおばさん。
どういった関係のおばさんだったか、私の記憶があいまいで恐縮したのだが、
懐かしい広島弁を聴いて、やさしかった祖母のことを思い出した。
祖母が亡くなったのは私が20歳ころだったと思う。
祖母の葬儀で、私ははじめて父が泣く姿を見た。
墓に向かった。
生家跡から墓までは歩いて15分ほどだ。
山を削ってつくられたパイパスが見える。
バイパスから国道2号線につながる予定の市道の一部も見える。
この市道が、父の生家の一部を通る。
このあたりの景色も変わってしまうのだろう。
墓に着いた。
真新しい榊が供えられていた。
親類のだれかが来たのだろう。
自分も花を供える。
墓石に水をかけ、手を合わせる。
振り返って景色を見る。
坂にできた住宅地、半年間だけ通った小学校、国道2号線、山陽本線と糸崎駅、工場群、瀬戸内海、山。
ここからみえる景色は40年以上経っても変わらない。
大好きだったおばあちゃんちはなくなったけど、
この墓だけは守りたいと思う。
<2012年8月13日(月)>
翌日、妹から電話があった。
「いま墓参りに来てるんやけど、うちの墓どれ?」という。
急に思い立って墓参りを敢行し、菩提寺をたずねて墓地の場所を訊き、
菩提寺の住職が親切にもいっしょについてきてくれたという。
ただ、悲しいかな妹は物心ついてから墓に行ったことはなく、住職も墓地はわかっても墓石がわからない。
そこでSOSの電話が入ったのだが、山肌につくられた墓地で墓の場所を説明するのは難しい。
家紋で確認し、何とか探し当てたようだ。
妹によれば、その場で住職は盂蘭盆のお経をあげてくれたらしく、
感動して涙が止まらなかったとのこと。
競馬場に立ち寄ってから墓参りに行った愚兄とは大違いである。
妹に「景色きれいやったやろ」とメールすると、
「住んでみたいと思った」と返事が来た。
うれしい返事だった。